[WikiJA-l] 井戸端の「放送番組のスポンサー列挙に必要か?」とKanbun

キリカ nyaa22 @ 1kw.jp
2006年 12月 29日 (金) 19:32:46 UTC


http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:井戸端#放送番組のスポンサー列挙に必要か?
http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 
放送番組#スポンサーの列挙は必要でしょうか


井戸端で気になる面白い質問があったので意見します。キリカは管理者さんに
両手両足を縛られて、食べ物も与えられないひもじい状態なので、MLを使いますね。


結論から言いますと、スポンサーの列挙を拒否するのは論理的に難しいです。
これはウィキペディアの理念の基礎となっている「Wikipedia:五本の柱」の一つである
「Wikipedia:中立的な観点」に接触する可能性が高いからです。

問題の起こってる「ウィキプロジェクト 放送番組」の意見の論点はこの様にも置き換えられます。
作品:(番組内容)(視聴者の観点)
制作:(制作現場の状況)(テレビ局の観点)
商品:(マーケティング)(スポンサーの観点)
評価:(社会への影響)(社会からの観点)

例えば、マーケティングの立場からすれば、番組の内容は程々にして
視聴者層や、どう言った広告を流すか説明する方に力点に置くのは当然です。

番組内容を知りたい閲覧者にとっては、制作現場や視聴者層についての記述は
およそ期待しない物であり、あっても記事を冗長にするだけで不必要な内容でしょう。
しかし反面、商品としての位置づけを知りたい人にとっては、作品内容だけ書いてあっても
何にも役に立ちません。これではウィキペディアは必要なことが何も書いてない
中身がない百科事典となってしまいます。

それでも「ウィキプロジェクト 放送番組」や特定の執筆者同士の間で
「スポンサーについては書かない」と〈決める〉ことは出来ます。
ですが、その判断は(マーケティングの観点)(社会からの観点)などを否定する行為となり
「Wikipedia:中立的な観点」にバッティングします。特定の観点を意図的に拒否する事ですからね。



さて、ここからが本題です。
それでも「書かないと〈決めた〉のだから、書かないのだ」というのは
下位のルールとして制定することが可能です。しかし「Wikipedia:中立的な観点」の方が
上位に位置しますから、必ず以下のような意見が上がって来るでしょう
「なぜ、視聴者層が書かれてないのだ?」「スポンサーの記述がなければ意味がない!」
そして「過去の決定は、Wikipedia:中立的な観点を否定する決定であり、不当である」と。

これは一時的な対処では解決のしない、ウィキペディアの構造的な問題です。
例え、この場で無視しても、いつか必ず反対する意見は蘇って来るでしょう。
「Wikipedia:中立的な観点」が五本柱の一つに数えられてるのは伊達じゃないって事ですね。



すなわち、直結的な影響力を及ぼし、公式化するか否かが問題となる「運用型のルール」に対して
存在するだけで影響力を及ぼし、たとえ拒否しても復活する、仕組みの中に埋め込まれた規格・要素
とでも言うべきものが「理念型のルール」です。これは物理方程式のような物なので
公式化しようがしまいが存在しうる物であり、「規定」というより「発見」に近い性質を
持っているため、弄ろうにも弄り難い性質なのです。

分かりましたか? Kanbunさん。
と言うより、Kanbunさんは「理念型」の項目にも携わっていたし
「/以前のページ」にも書いてあるのに、どうしてそんな事するの?
もしかしてキリカの事が嫌いだから、見捨てたんですか?
「メタ・ルール」と「理念型」を同じ扱いするなんて
Kanbunさんはどうしちゃったのかなぁ って思いました。




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